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スポーツは誰のためのものか

スポーツプロデューサー、杉山茂さんの著書。

杉山さんとは、慶応の大学院で客員教授をされている時に共通の知人を介して何度かお会いしたことがあるのですが、日本スポーツ界の生き字引みたいな方で、とにかく現場の話を上からも下からも横からも斜めからも熟知しています。それに、お話がとても面白いのです。

そんな杉山さんの本ですので、とにかく深いです。

僕は本や文献を読む時は、「要はどういうことなのか?」「一言で言うと何なのか?」を考えるようにしているのですが、杉山さんの本は僕の知識で一言で言える範囲を超えてしまっています(笑)。

これは、内容が分かりにくい、というのではなく、文章の含蓄が深く、しかも本質的なので、こちらも本質的に詰めて考えないと、杉山さんが意味する本当の文脈を理解できないのです。

この本はいつ読んでも新しい発見がありそうなので、そういう意味ではスポーツビジネスのバイブルのような、迷ったら読んでみる、というような本だと思いました。ご興味がありましたら、是非ご覧下さい。詳細はこちらのページで紹介されています。

2016東京オリンピック招致失敗で変わる日本のスポーツ

標記のタイトルの書籍が創文企画より発売になりました。

何人かの著者が違った切り口から2016年オリンピック招致活動を分析・論評しているのですが、僕も「シカゴオリンピック招致失敗にオバマ効果はどう影響したか?」というタイトルで寄稿させて頂きました。

2016年オリンピック招致については、日経ビジネスオンラインでも書いたのですが、その内容を元にアメリカで感じたオバマ効果やその後入手したデータを加筆し、アメリカ離れを進めているIOCの現状などについて書いています。

メールでの注文販売になっているようですので、ご興味がある方はこちらかたご注文下さい。

【目次】
■問われる「日本スポーツ」の総合力(杉山 茂)
■ノート「TOKYO 2016」(杉山 茂)
■寂しい結果、寂しい体質(佐藤次郎)
■シカゴオリンピック招致失敗にオバマ効果はどう影響したか?(鈴木友也)
■たかが支持率、されど支持率 ―招致のレガシーを今後にどう生かすか(佐野慎輔)
■オリンピック招致の見えざる力(海老塚 修)
■広島・長崎オリンピックに期待する(岡崎満義)
■東京五輪招致失敗と日本スポーツ界の危機意識(滝口隆司)
■2016東京五輪招致失敗は平昌、釜山の五輪招致にとってどんな意味を持つのか(大島裕史)
■2016東京オリンピック招致活動に注がれたメディアの視線 ―その場を映すだけのメディア(上柿和生)

ブクログ

気づいた方もいらしたかもしれませんが、昨日から「ブクログ」(Booklog)というのをこのブログの右側に表示しています。

職業柄、本を読むのは仕事の一部なのですが、読む機会があったスポーツビジネス関連本の中でも、「これは面白かった!」「これは資料的な価値が高い!」「これは仕事に使える!」と特に感じた本を独断と偏見でピックアップして皆さんにご紹介しようと思います(特に、英語の良書を紹介しているところはなかなかないと思いますので、意識的に英語の本を多めに紹介するようにしようと思います)。

乞うご期待下さい。

ジャーナリストという仕事

知人の勧めで「スポーツジャーナリストという仕事」という本を読みました。ちょうどこの本が書かれた時が2004年だったということもあり、球界再編問題を例にとって日本のスポーツジャーナリズムの特徴・問題点を論じています。

著者の小田光康氏は、米会計事務所デロイト・トゥシュ勤務から共同通信社、ロイター通信社を経てジャーナリストに転身したという異色のキャリアの持ち主で、「記者クラブ体質による横並び主義」「取材対象からの独立という原則を破った選手べったり主義」など、同業者としては言いにくいであろう批判も臆せずに展開しています。

僕も仕事の関係でMLBなどで取材の現場に居合わせることもあるのですが、やはり一部日本人スポーツ記者の横並び体質はアメリカ人記者には特異に映っているのではないかと思います。特に自らは質問することなくじっと他の記者の質問に耳を澄ましていたり、記者会見の後に情報交換しあったりするのは、不思議に映るでしょう。

「ネタ落ち」(他社にネタを抜かれること)が許されないというのは分かりますが、真摯に取材を進めている記者からは「日本人スポーツジャーナリスト全体の印象を悪くしている」という意見も聞かれます。

個人的に、ジャーナリストとは「職業」というよりも「生き方」に近いと思います。特にジャーナリストとして独立してやっている人にこの意識は強く、こうした人にとっては、ジャーナリズムの原則を破ることは生き方自体の否定になるわけです。一方、企業から派遣されてきた記者には、そうした原則よりも、部数を多く売り上げることが優先されるのかもしれません。もちろん、全員がそうだとは言いませんが。

日本とアメリカのジャーナリズムの比較という意味では、以下の「アメリカ・ジャーナリズム」がお勧めです。

著者の下山氏は、日本の雑誌社に勤務していたのですが、日米のジャーナリズムの違いやウォーターゲート事件以降のアメリカのジャーナリズムの変化を学ぶためにアメリカジャーナリズムの総本山=コロンビア大学ジャーナリズムスクールに入学し、そこでの体験やアメリカの多くの第一線のジャーナリストとの交流をまとめたのがこの本です。

調査報道を主体とするアメリカと、記者クラブからの情報提供をそのまま流用する日本という大きな対比の中で、アメリカでも新聞社が上場メディア企業に買収された結果、株主至上主義から(投資対効果の低い)調査報道が廃れつつあるという現実など、なかなか読み応えのある本でした。

アメリカのジャーナリズムは「善」、日本は「悪」という単純なステレオタイプでの比較論ではなく、アメリカのジャーナリズムの欠点を客観的に指摘するなど、公平性に配慮した内容になっています。

高校野球「裏」ビジネス

やっぱりそうか、というのが読後最初の感想でした。

この本は、昨年、西武ライオンズのアマチュア選手2人に対する計1300万円近くの金銭供与が判明した事件で、表には出てこなかった「闇」の部分を掘り下げたものです。

プロとアマは、表面的には対立しながらも、裏では一部の利害関係者が結託して「選手」を食い物にしている、というのが現状のようです。関係者の間では「公然の秘密」となっているこうした関係が、何十年にも渡って黙認され、既得権が張り巡らされているのでしょう。

この事件の調査委員会が、西武球団による不適切な金銭供与に高校・大学・社会人の170名の関係者が関与していることを明かしましたが、この本の中に出てくる「この問題を徹底的に掘り下げていくと、今のプロ野球が崩壊しかねない」という関係者の指摘は、この問題の根深さを物語っていると思います。

金銭の授受については、一概に「悪」と決めつけるのは良くないと思います。アマチュア界が育てた選手がプロで活躍するわけですから。問題は、その授受が水面下に潜っている点だと思います。選手の契約金の7割がブローカーに抜かれていたことが、税務申告時に初めて明らかになった、なんて笑えない話もあるようです。

理想論を言えば、MLBのIndustry Growth Fundのような、産業全体を育てるための基金を作って、公平なルールを定めてお金を配分していくことができればと思いますが、まあそんなに簡単な話でないことは分かるわけで。。。改めて、野球界の抱える「闇」の深さに重い気持ちになりました。

ニューヨーク流たった5人の「大きな会社」

僕は乱読が趣味で、週末暇があると41丁目にあるブックオフにいって古本を大量に買い込んでくる癖があるのですが、日曜日にふと目についた本に『ニューヨーク流たった5人の「大きな会社」』というのがありました。

「ニューヨーク」と「5人の大きな会社」というのが引っかかって手にとってパラパラめくってみたのですが、著者の神谷秀樹さんは、僕がコラムを書かせて頂いている日経ビジネスオンラインで同じく「経営/戦略」分野でコラムを書かれているので、お名前は知っていました。そういうのもあって、これも何かの縁かと勝手に解釈して購入して家に帰って読んだのですが、これがとても面白い。

神谷さんは住友銀行に入校後、国際投融資部、国際企画部で活躍するも、会社の非合理的な意思決定を目の当たりにして「これは私が今後とも働き続けるべき職場ではない」と結論付け、ゴールドマン・サックスに転職。GSでも「最も革新的な投資銀行家」に選ばれるなど活躍されるのですが、「顧客が自己の収益を追及するための単なる素材に過ぎない」マンモス投資銀行の内実に疲れ、顧客・投資銀行家・投資家3者の利害を一致させる理想の投資銀行を作るべく、小規模投資銀行(神谷さんは「モスキート投資銀行」と呼んでいる)ロバーツ・ミタニLLCを設立されたという経歴の持ち主です。

僕は今、自分の会社のあり方についていろいろと考えているのですが、特に感銘を受けた・強く共感したのは、以下の点です。

■「人のリスク」はとらない
事業の拡大を急ぎ、目の前にある収益機会を捉えるために、どんどん人を採用しては使いすてるというようなことは決してせず、会社の使命を頑なに守り、人材を厳選している。

■自分で自分を雇う
ロバーツ・ミタニLLCの損益計算書に「人件費」という項目はないそうです。社員は全てIndependent Contractorとして独立しており、支払いは自分が手がけた案件収益からの「手数料」となるため、「給与」という支払項目は存在しないそうです。よって、給与やボーナスの査定をする必要もない。

■「コモディティー」にならない
大量生産を前提とした工業社会から、知的資産を中心とした産業社会に移行しつつある現在、その知的生産の源泉は個人の頭脳である。知的資産の時代には、工場の設備や資金はもはや財やサービスの価値を産み出す主体ではなく、その地位はどこにあってもいくらでも取り替えがきく「コモディティー」に過ぎない。今後、あらゆる産業においてコモディティーは世界の十指に入る企業による寡占化されていく。

本当に実力のあるプロフェッショナルしか働くことの出来ない厳しい職場なんでしょう。しかし、志を同じくする仲間にとっては、最高の職場に違いありません。

入社3年目までに勝負がつく77の法則

掲題の本がPHP文庫から出ています。

数年前に読んで非常に共感したのですが(その時は、当時のインターンにあげてしまった)、昨日偶然本屋で見つけたので、購入して読み直したところ、懲りずにまた共感してしまいました。著者の職人気質からくる職業観がフィルターとしてかかっているので、若干??と思う部分もあるかもしれませんが、言いたいことは非常によく分かる、そんな感じの本です。早速、今日インターンのT君に(無理やり?)読むように言いました。

自分の中で仕事のアウトプットの質をどこに据えているか、というのは仕事をする上で非常に大事だと思います。「人生はマラソンだが、どこの集団に属しているかが大事」という著者の考えには強く共感します。

特に、将来留学したい、スポーツ界で働きたいと思っている学生や20代の方に読んで欲しい本です。うちのインターンの必読書にしようかな。

中空構造日本の深層

ふと考えると、もうアメリカに来てから8年目に突入しています。今でも忘れませんが、片道切符の航空券でボストン空港に降り立ったのが2000年8月2日。翌朝ホテルの部屋で目覚めた時、見慣れぬ天井を眺めていて、何かとんでもないところに来てしまったのではないかという猛烈な不安に襲われたのを覚えています。

アメリカに来たから、というよりは日本を離れたからだと思うのですが、それにより見えてきたこと、考える機会を得たことがたくさんあります。そして、これが僕がアメリカで暮らすようになって手に入れた最大の財産だと思っています。

考える機会を得たことで、今でもぼんやり考え続けていることの1つが、「日本人としての自分のアイデンティティー」です。何だか漠然としていますが、実際の生活上の疑問に置き換えると、「自分はどのようなことをして生きていると幸せを感じるのだろう」ということです。「日本人としての」というのを敢えてつけたのは、自分が日本人であることが自分の思考形態や価値観に大きな影響を与えており、これ抜きでは考えられないからです。

なんだか哲学みたいなつかみどころのない話になってきましたが、僕も日本で暮らしていた頃はこんなこと考えませんでした。考える必要がなかったのです。今思えば、日本に暮らしている時は、何かに所属していることにアイデンティティーを感じていて、それはそれで満たされていたのだと思います。部活とか会社の同期とか。しかし、アメリカは基本的に個人が立って生活していく国ですし、僕がこちらで特定の大きな日本人グループに所属していないということもあって、そういう手法は通用しません。

いい機会なので、今は思いっきりこのことを考えてやろうと思い、いろいろな本を乱読しているのですが、中でも河合隼雄や村上春樹の本は非常に面白い視点を僕に提供してくれます。

河合隼雄氏は言わずと知れた、日本のユング派精神分析医の第一人者。村上春樹氏の名前は、この流れでは意外かもしれませんが、実は彼は一時期アメリカで暮らしていたことがあるのですが、その頃の著作(「ねじまき鳥クロニクル」や「やがて悲しき外国語」など)の裏のテーマは、日本人のアイデンティティーなんだと思います。「村上春樹、河合隼雄に会いに行く」なんていう著作もあるくらいで、両者の問題意識には共通点があります。

で、最近読んだ本で面白かったのが、河合氏の「中空構造日本の深層」。

この中で、河合氏は日本人の心の深層構造を「中空均衡型モデル」、欧米人のそれを「中心統合型モデル」として比較・整理していくのですが、これが今僕が感じている日米の社会的差異の根幹にあるように思え、非常に興味深く読み進めました。

「中空均衡型モデル」とは、僕の理解では、大事な部分を敢えて空白とし(例えば、いわゆる「みこし」のように、皆で担いでいるが、誰がみこしを進めているのか分からない)、その周辺にいろいろな考えを配置してバランスを取るモデル。一方で、「中心統合型モデル」は自然科学主義を中心に責任の所在を明らかにし、全てを合理的に整理していこうとするモデル。

2つのモデルに属す人々の心理的な大きな違いの1つは、本書の言葉を借りれば「合理的に思考し判断し、それを個人の責任において主張する強さ」ということになります。中心統合モデルにはこれがあって、中空均衡モデルにはこれがない。

なるほど、「中空均衡型社会」で育った僕が中心統合型社会で違和感を感じるのも当たり前というわけです。で、これ一見するとスポーツにあまり関係ないようにも見えますが、アメリカのマーケティング手法を日本に取り入れる際は、その前提となっているファンの行動形態に、やはり同様の違いがあると考えるのが自然なので、こうした社会の違いを理解していることが実は有効なのではないかと感じます。

例えば、応援方法。アメリカの応援は基本的に「1対1」です。いいプレーだと思えば、周りがどう思おうが立ち上がって拍手するのがアメリカ流。一方、日本は「N対1」の応援で、皆で一体になって応援します。応援団の調子に併せて応援するのが日本の特徴でしょう。これなどは、中心統合型と中空均衡型の違いが見事に出ている例だと思います。なので、あまり日本にアメリカ式の応援手法をそのまま導入しようと思っても難しいと思います。

なんだかぐちゃぐちゃになってしまいました。あまり頭の中で整理できてないことを徒然なく書くのは良くないですね。

「日本人の精神と資本主義の倫理」

ロングテール時代を迎え、ここ数年でメディア消費の形態が大きく変わりつつあります。具体的には、「第1の窓」(=テレビ)から、「第2の窓」(=PC)、「第3の窓」(=モバイル)に消費者のタッチポイントがシフトしています。そして、ファンの大部分がメディア消費者であるスポーツビジネスもこの変化を避けて通ることはできません。

こうした消費形態の変化に加え、TiVoやSling Boxといった最新技術を利用したサービスの登場が引き起こす「タイムシフト」(好きな時間にコンテンツを消費できる)、「プレイスシフト」(好きな場所でコンテンツを消費できる)により、「第1の窓」の広告モデルは変化を強いられています。

今後は、ロングテールの「ヘッド」に位置する「第1の窓」に閉じたビジネスは成立しにくくなっていくのではないでしょうか。逆に言えば、「第2の窓」「第3の窓」を上手く活用し、「テール」から「ヘッド」に流す循環モデルを構築する必要が強くなってくるかもしれません。

実は、最近あるクライアントとこうした“ロングテール時代”を見据え、「いかにテレビ番組というコンテンツの持つ価値を最大化できるか」というテーマで、アメリカのスポーツビジネスのベンチマークを行いながらディスカッションを重ねています。その中で仮説として考えているのが、アメリカのテレビ界の方が、「第2の窓」「第3の窓」を上手く活用しながら、長期的な視野に立った持続的成長に資するモデルの構築に成功しているのではないか、ということです。

この仮説に立ち、日米の差異がいかにして生まれているのかのギャップ分析を様々な観点から実施しているのですが、日々悶々と考えている中で関連しそうな書籍や論文、インタビュー記事などを手当たり次第に読んでいます。そんな中で出会った本がこの「日本人の精神と資本主義の倫理」でした。

この本は、マッキンゼー出身の経営コンサルタント波頭亮氏と、脳科学者の茂木健一郎氏による対談をまとめたもので、「必ずしもお金にならなくても、価値のあるものは価値のあるものとして守り育てていく気概が日本の社会からなくなってしまった」ことを大きなテーマに、なぜ日本の社会がそのように変容してしまったのかを論じたものです。

「日本は物質的に豊かにはなったが、心は本当に豊かになったのか?」とは、もうそれこそ僕が子供の頃から言われていたことでした。しかし、この問いの意味を体感的に理解することは、周囲を海に囲まれた、ほぼ単一民族による国家に近い日本の中では難しいのかもしれません。比較対象がないからです。僕も留学して日本という国をアメリカとの比較によってようやく体感的に理解できたような気がしました。

僕は仕事柄、アメリカと日本を行ったり来たりする生活を送っていますが、東京のように近代的で清潔感溢れる都市は、世界の中でも稀なのではないでしょうか。少なくとも、アメリカにそのような都市はありません。ニューヨークなどは、発展途上国の臭いすらしますから。

ただ、日本がそういう経済的な繁栄を謳歌している一方で、気になることもあります。それは、消費一辺倒のモノカルチャーな印象を拭えないという点です。分かりやすい例で言えば、テレビの視聴率至上主義になるのかもしれません。ゴールデンタイムの番組は「売れる」芸人で占拠され、視聴率を取るために番組が最初から最後まで吹き出しや音楽で過剰に演出されている様子はちょっと異常です(芸人さんを差別する意味ではありません。そうしたものに対する対立軸がないという意味です)。電車に乗れば、扇情的な見出しであふれた雑誌広告が否応なく目に飛び込んできます。街を歩く女性はファッション雑誌からそのまま出てきたかのような格好で歩いています。皆、おしゃれですが、どこかファッション誌にうまく乗せられている感じがします。

こうした番組や広告が幅を利かせているのは、それを消費する国民がそれを望んでいるためだとも考えられます。そして、短期的な消費一辺倒の国民の行動形態は、もしかしたら長期的な社会の発展や文化的な資産の蓄積を阻害しているのかもしれません。

「日本人の精神と資本主義の倫理」は、僕が体験的に抱いていたこうした疑問にロジックと見識をもたらしてくれるものでした。一見、スポーツと関係なさそうにも見えますが、日本社会を長期的観点から捉え、日本社会で忘れられつつある「ノーブレス・オブリージュ」の担い手としてのスポーツの可能性を気付かせてくれるものとなりました。
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