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社会において集団と個人のどちらを優先するか

これは白か黒かの二元論ではなく、あくまでも程度問題なのですが、ある意思決定を行う際に、個人の都合を優先するのか、あるいは全体の都合を優先するのかは、日米において大きな違いがある点だと思います。

日本は全体の都合を個人の都合に優先する社会、アメリカは個人の都合を全体の都合より優先する社会だと感じます(程度問題なので、日本は個人の都合が考慮されない、あるいはアメリカでは全体の都合を考慮しない、というワケではありません)。

前に「日米の学生気質の差」「中空構造日本の深層」などでも書きましたが、日本人は、何となく予定調和的な発想で、自己主張する前にその場で求められている「正解」のようなものを無意識に探し求めて、それと自分の主張の整合性を確認してしまう傾向が強いように感じます。そして、旗色が悪いと意見があっても発言を控えてしまう。これはもちろん自分も含めてですが。

例えば、個人的な体験で言えば、大学院に留学していた際、授業の最後に必ず教授が「何か質問はあるか」と聞くのですが、僕は質問があっても「この質問は今すべきなのか?」「こんなこと聞いて恥ずかしくないか?」など、いろいろと考えてしまうわけです(で、往々にして質問しそびれる)。しかし、アメリカ人は質問があると間髪を入れずに手を挙げます。

中には、「おいおい、そんなこと今聞くなよ」「それ、授業中に言ってたじゃん」などというケースもでてくるのですが、聞くほうは悪びれる様子もなく、教授も親切に質問に答えようとします。日本だとKYということになってしまうかもしれませんが。

また、昔話に近い話になりますが、僕が大学生のアメフト部に在籍していた頃は、体調不良や怪我、就職活動などで練習を休むと、何となくチーム全体に迷惑をかける行為として罪悪感を感じてしまいます。上司や同僚がまだ仕事をしているのに、先に帰るときなども同じかもしれません。

アメリカ人に全くこういう感覚がないとは言いませんが、日本人ほど罪悪感を抱くというようなことはないように思います。会社内やクライアントとの飲み会があっても、例えば「僕は今度マラソン大会に出場するのですが、その練習をしないといけません」などの理由で平然と帰っていきます。「スポーツと民主主義の成熟度は比例する?」でも書きましたが、うちのオフィスのご近所のモーリスなど、「今日は天気がいいから」という理由で仕事中にオフィスを抜け出して散歩に行ってしまうくらいです。

さて、前置きが長くなりましたが、社会の中で個人の都合を優先するのか、全体の都合を優先するのかの違いは、実はエンターテイメントの発展過程にも大きな影響を与えているのではないか、という仮説を最近立てています。

例えば、モーリスではないですが、アメリカ人は平日の昼間であろうと、仕事が忙しかろうと、好きなスポーツがあれば観に行きます(だから、忙しさにかまけてWSを見ない僕は向かいのLynnに怒られてしまうのですが)。でも、日本で平日の昼間に仕事場を抜け出して野球観戦に行くのはかなり勇気がいりますよね。まあ、これはサラリーマンと自営業の違いとも言えるので、一概にお国柄の違いとは言えませんが、でも平日のヤンキースのデーゲームでも4万人以上の観客が集まります。

あるいは、スタジアムやアリーナの設計についても、この影響があるのではないかと考えています。

写真変えました」で、最近米国でのスポーツ施設の設計では「が」から「も」へのシフトが進んでいると書きました。日本も最近かなり「も」の施設が増えてきましたが、まだまだ少数派だと思います。

日本で「が」の施設が多いのは、「野球場は野球だけを見る場所だ」という予定調和があり、この“全体の都合”が何よりも優先されてしまうからではないのかなどと考えています。でも、アメリカでスタジアムやアリーナ行くと、「実は試合を見てる人のほうが少ないんじゃないか??」と思えるほど、バーでおしゃべりに興じていたり、テレビゲームコーナーでゲームしてたりするファンが目につきます。

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comments

日本は本当に予定調和重視ですね。職場でも「クールビズ」と言って行きながら、担当者紹介や会議や会食でネクタイしたりジャケット着たり。結局、ネクタイジャケットを持ち歩くのが面倒で、中途半端です。必要以上に形式を重んじる幹事です。とくにマスコミ営業部門がKYを気にしているように感じます。だから番組も予定調和重視でしょうか?

  • Kazuma
  • 2010/07/21 10:06 AM

Kazumaさん

コメントありがとうございます。やはり、例えばテレビ業界であれば視聴率を気にする以上、「空気を読む」ことが求められるのは致し方ないのかなとも思います。ただ、「中空構造」ではないですが、実は必死で読もうとしている「空気」は、実は周りが勝手に作り上げた「虚像」ということもあるかもしれません。ある意味、空気を読むことが言い訳になっているのでしょうか?「茹で蛙」になる前に、「海に飛び込むペンギン」になる気概は必要かと思います。

  • tomoyasuzuki
  • 2010/07/22 4:02 AM
   
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