May 2018  |  01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

プロスポーツ選手のメンタルヘルス

ワイルドカードPOで負けてしまったヤンキース。ご存知の通り、マー君が先発し、好投したものの打線の援護なく0-3で敗れてしまいました。

実はこの試合の前日、ヤンキースの左のエースのCCサバシア投手が自分がアルコール依存症であり、リハビリ施設への入院が必要なことを告白しました。前代未聞のことです。このため、プレーオフはもちろん全休となる予定でした(残念ながらWCで負けてしまいましたが)。

メディアの知人から聞いたのですが、ヤンキースの番記者ですら寝耳に水だったそうです。

しかし、数字で天国と地獄が決まるプロスポーツ選手は、普通の人には考えられないプレッシャーの中で戦っており、またアメリカなら遠征や時差の関係で多くの選手が睡眠障害に悩まされていると聞きます。こうした過酷な環境の中でサバイブを求められるプロスポーツ選手には、アル中やうつ病などを抱えている選手が少なくないであろうことは想像がつく話ではあります。

MLBにもこの手の逸話はたくさんあります。例えば、最近ならレンジャーズのジョッシュ・ハミルトン(2010年のアメリカン・リーグMVP)はアルコールと薬物の依存症だったことを告白していますし、98年に完全試合を達成したヤンキースのデビッド・ウェルズは自伝の中で登板時は酔っていたことを暴露しています。古くは、MLBで唯一ワールドシリーズで完全試合を達成したドン・ラーセン(こちらもヤンキース)も登板当日の朝まで酒を飲んでいたとか。

ただ、プロスポーツが夢を売る仕事だけに、こうした内情が明るみになることはあまりありませんでした。

しかし、今月に入り衝撃的な調査結果がFIFPro(国際プロサッカー選手会)から報告されました。11か国の約800名の現役・元選手を対象に行ったリサーチにより、以下の事実が明らかになったのです。

・3割を超える選手に、過去1か月間にうつ病の症候や不安があった
・2割を超える選手が睡眠障害を訴えた
・重症とうつ病の相関関係が認められた
・3回以上重症を負った選手は通常の2〜4倍のメンタルヘルス上の問題を報告する
・アルコールの乱用は引退すると急増する(9→25%)

これに呼応して、ニュージーランドのサッカー界で画期的な出来事がありました。サッカー協会と選手会との間に結ばれた新労使協定に、選手のメンタルヘルスに関する条項が盛り込まれたのです。これにより、代表選手が国際マッチに召集される際にはチームドクターが個別面談を行い、メンタルヘルス悪化の兆候があればカウンセリングが提供されるようになるそうです。

超人の様に見えるプロスポーツ選手も一人の人間です。メンタルヘルスを病んでしまった選手が適切な処置を受けられる環境が今後より一層求められることになるでしょう。

戦力均衡の重要性

日米ともに、プロ野球、MLBのプレーオフ進出チームが決まりつつありますね。

日本では東京ヤクルトスワローズが14年ぶりにペナントを制しました。スワローズ関係者の皆さん、おめでとうございます!パ・リーグはホークスが圧倒的ですね。

NYでもメッツがまさかの地区優勝で(失礼)9年ぶりにPO進出を決め、ヤンキースもワイルドカードの1日POに滑り込みました(明日はマー君が先発しますね。凄いです。この1日POは文字通り背水の陣ですから、無茶苦茶盛り上がります)。

メッツは毎年夏過ぎには終戦になるのが恒例でしたし、ヤンキースもここ数年低迷していたので、秋になると早々にNYのスポーツファンの興味はフットボールやバスケットボールに移って行くのが常でした。僕は別に熱心なメッツファンでもヤンキースファンでもありませんが、でも地元のチームがPOに出るというのはいいもんですね。

言うまでもないことかもしれませんが、全てのスポーツファンが(毎年とは言いませんが、定期的に)こうした気分を味わうべきです。さすがに10年、15年POから遠ざかっていると、希望が持てなくなり、ライトファンは離脱して行ってしまいます。その意味で、本当に戦力均衡は必要だなあということを体験として痛感しました。

で、戦力均衡の定義ですが、「定期的に優勝」する必要は必ずしもありません。POは短距離走ですから、戦力均衡の制度的なコントロールが効きづらい舞台です。なので、最低でも「市場が小さくて経営が厳しい球団でも10年に1回くらいはPOに進出できる」くらいが戦力均衡の目指すべき落としどころだと思います。「あ、もしかしたら優勝できるかも!」という期待を定期的に醸成するのが戦力均衡の肝です。

ちなみに、MLBで最も長くPO進出を果たしていないのがマリナーズで14年間、次いでマーリンズが12年間です。10年を超えるのはこの2球団だけです。5年以上、10年未満の球団も4球団だけですから(合計6チーム)、15年ほど前は戦力不均衡の好例とも言われていたMLBも、かなり戦力均衡が進んで来ているのでしょう。

で、調べてみたら、実はMLBはNFLより上手くやっているんですね!

NFLの場合、10年以上PO進出していないのはビルズ(14年)、レイダーズ(12年)、ブラウンズ(12年)、ラムズ(10年)の4チームで、5年以上10年未満の球団も4チームあります(合計8チーム)。

日本(プロ野球)はどうかというと、こんな感じです(2015年10月5日時点)。

■セ・リーグ
ヤクルトスワローズ:0年
読売ジャイアンツ:0年
阪神タイガース:1年
広島カープ:1年
中日ドラゴンズ:3年
DeNAベイスターズ:17年

■パ・リーグ
ソフトバンクホークス:0年
日本ハムファイターズ:0年
千葉ロッテマリーンズ:0年
西武ライオンズ:2年
オリックスバファローズ:1年
楽天イーグルス:2年

日本は球団数が少ないので、2007年にCSが出来て状況は劇的に改善されてきているようです。ベイスターズファンはちょっと可哀相ですね。。。

SBA(スポーツビジネスアカデミー)開講にあたり

FBやツイッターなどでもお知らせしましたが、今週月曜日にスポーツビジネスに特化した教育プラットフォーム「Sports Business Academy」(スポーツビジネスアカデミー)を開講致しました!


僕は、以下に説明する2つの懸念、危機意識を日本のスポーツビジネス界に対して常々抱いていたのですが、SPOLABo代表でNPBE執行役員の荒木さんも似たような危機感を抱いており、いろいろな事業的な巡りあわせもあって、この度、荒木さんとともに一般社団法人スポーツビジネスアカデミーを設立する機会を頂き、SBA開講に至った次第です。

1つ目の懸念。これは、かれこれ10年くらい持っているものです。

僕がアメリカに留学した15年前は、「スポーツビジネスに就職する」という発想そのものがまだ一般的でなかった時代でした。スポーツで生活するといえば、プロスポーツ選手になることくらいしかイメージがなく、当然僕が就職活動をしていた20年前に選択肢としてスポーツビジネスが上がることはありませんでした。

しかし、今や海外にスポーツ経営を学びに留学することは珍しくなくなり、日本国内にも多くの大学がスポーツ関連の学科を立ち上げるようになっています。これにより、就職の選択肢の1つとしてスポーツビジネスが学生にも目に見えるようになりました。

良く言えば、これはスポーツビジネスの担い手が増えるようにも見えますが、悪く言えば「スポーツビジネス」という椅子取りゲームの参加者が増えただけで、椅子の数は増えていない状況です。

誤解を恐れずに言えば、スポーツビジネス(特にプロスポーツ)は経営的な余裕のあまりない中小企業ですから、ビジネスパーソンとしての武器を持たずに丸腰で就職しても、なかなか武器ができづらい産業です。充実した研修制度などはあまり期待できませんから。だから、僕は大学生から進路相談を受けた時は、必ず「最初はスポーツ以外の産業で自分の武器を確立してから入ってきた方がいいよ」「入ることだけを考えるのではなく、入ってからどう活躍するかを考えた方がいいよ」とアドバイスしています(もちろん、ケースバイケースですから、絶対最初に入ってはダメというわけではありませんが)。

スポーツビジネスの採用は、「兵隊採用」か「士官採用」に分けれます。兵隊採用からたたき上げで士官になる人もいますが、長いこと兵隊のままだったり、士官になる前に燃え尽きて辞めてしまう人も少なくありません。「入ること」しか考えていない人は、だいたいこのパターンが多いでしょうか。

椅子取りゲームの椅子の数を増やすために、産業を大きくできる「士官」がまだ足りない、というのが僕の1つ目の懸念です。スポーツ界は平均給与も低い業界です(タダでも働きたいという人がたくさんいますから)。それが、優秀な人材を呼び込むのを難しくしている側面もあります。どんどん優秀な人材にスポーツビジネスに入ってきてもらい、リーダーになって欲しいのです。

2つ目の懸念。これはちょうどここ2年くらいで見えてきたものです。

2013年9月、東京が2020年のオリンピック開催都市に決定しました。この日を境に、日本のスポーツ界への注目度が急速に高まり、多くのお金が流れ込んで来ています。私のところでも、オリンピック関連の案件が常時走っているような状況になりました。

お金が流れ込むところにはいろいろな人や会社が集まります。でも、その中にはぶっちゃけ「スポーツが金儲けに利用できればいいや」という考えだけのように見える人や会社もいます。ビジネスですから、ルールを守ればそれはそれでアリだと思います。産業が大きくなるのはそういうことだと思いますから。

今や、ほとんどバブルのような勢いなのですが、この勢いが“宴の後”も続くとは到底思えません。「オリンピックは盛り上がったけど、結局高いお金をつぎ込んだ割には、あんまり成果がなかったよな」と言われるのは、絶対に避けなければいけません。

これは、以前「2020東京は1984ロスになれるか?」などでも書きましたが、米国は1984年のロス五輪をきっけかにスポーツが産業として確立・発展していきました。これから10年先、20年先、あるいは半世紀先の日本のスポーツビジネス界の発展を考えると、これから東京オリンピックまでの5年が勝負どころだと思うのです。ここで上手くスポーツ産業を持続的に発展させることのできる人材を手当てしないと、日本スポーツビジネス界は長い冬の時代に入ってしまうかもしれない、これが僕の2つ目の危機感です。

15年、20年前に比べれば、日本のスポーツビジネス界は長足の進歩を遂げていると思います。多額のお金と優秀な人材が集まりつつある今、最大限の努力を振り絞って更にレベルアップし、日本スポーツビジネス界を1つの産業として確立することができたらと思っています。多分、この5年がその最大のチャンスと言える時期ではないかと思います。

自分なりのコンステレーションを探そう

今年も夏のツアーが終了しました。日本各地から集まった30名超の大学生と約1週間をNYで共に過ごしました。
 

インターネットの普及により世界が狭くなったと言われます。今や、ネット上の情報の55%が英語であることに象徴されるように(ちなみに日本語は5%)、好むと好まざるとに関わらず、英語ができないだけで世界から取り残されてしまうことになります。

ネットが発達したお蔭で、情報の取得は格段に便利になりましたが、それで世界を知った気になってしまうのは恐いし、もったいないと思います。「情報として知っている」ことと「体験として身を持って知っている」ことには大きな差があるからです。
 
ツアーではスポーツビジネスを題材にしているものの、僕が学生の皆さんに分かって欲しいことは、逆説的ですが、スポーツビジネスのことではありません。世界は広く、日本の「常識」は一面的な真実に過ぎず、必ずしも世界の「当たり前」ではないことに気づいて欲しいのです。

ぶっちゃけ、スポーツビジネスの知識なんて30歳になってから学んでも遅くありません。ビジネスパーソンとしての基礎ができていれば、あっという間に体得できてしまうでしょう。むしろ、学生のうちに必要なのは、知識やスキルではなく、それを乗せる器を大きくすることだというのが、僕の持論です。器を大きくするには、常識を疑い、異質なものを取り込んでいく努力が不可欠です。

日本の教育は平均点的には高いレベルにあると思いますが、いまだに「正解がある」ことを前提に、「正解を探す」教育を行っています。大学受験など、その最たるものかもしれません。でも、大学を卒業して社会に出れば、「正解」のない世界に突入します。

大袈裟かもしれませんが、正解のない世界をサバイブする上で必要なのは、哲学なのかもしれません。特に、特定の宗教を持たない人が多く、空前の経済発展を遂げたがゆえに、幸福を体感することが難しくなってしまった今の日本には、人生を生きて行くことに対する自分なりの哲学、流儀、つまり、自分なりの幸福の尺度の確立が必要なんだと強く思います。

他人との比較で幸福を定義する生き方は、今の時代には合いません。もう正解を探し求める人生はやめませんか?

とまあ、こんなメッセージを散りばめながら学生と1週間過ごすわけです。面白いのは、1週間で学生の顔つきがみるみる変わって来るんですね。最初は観光気分から抜けきらなかった学生も、最終日の「成果共有会」では、大人も唸らせる名言を吐くようになります(笑)。

  • 「発想は情報からではなく、体験から生まれるんだということが分かりました」
  • 「夢はアメリカにあるのではなく、自分の中にあるんだということが分かりました。僕は日本で夢を実現するために、アメリカという国を使ってやろうと思います」
  • 「成功と失敗を分けるのは能力ではなく、気合いなんですね。一歩踏み出す勇気が、状況を変えることを学びました」
  • 「このツアーの成否は、今後の自分の行動次第だと思います。刺激を受けたことだけで満足してはいけないと思いました」

人生とは、自分なりのコンステレーション(Constellation)を探す作業だと思います。Constellationとは、「星座」を意味する英語ですが、ユング心理学ではこの言葉を「自分の人生の出来事がつながって、全体として意味あるストーリーが星座のように見えること」といったような象徴的な意味で用いるそうです。

僕もこうした考え方が好きです。スティーブ・ジョブスもスタンフォード大での有名なスピーチで同じような事を言ってますよね。

日本では“北斗七星”とか“オリオン座”とか有名な星座になることだけが是であり、成功とされる風潮がいまだに強くあると感じます。でも、星は夜空に無数にあります。晴れていても、曇っていても、雲の向こうで人知れず輝き続けています。

誰かが名付けた有名な星座をなぞっても、幸せにはなれるとは限りません。人生は、東大理IIIに入れば成功する、という単純なものではありません。

誰も気づかなかった星を探し、自分なりのコンステレーションを作ってもいいではないですか。誰も知らない自分なりの星座を胸に秘め、ひっそりと、でも確かに踏みしめながら生きて行く人生も、それはそれで幸せだと思います。

ニューヨークスポーツビジネス視察ツアー2015 from Trans Insight on Vimeo.

P.S. このツアーハイライトは、酒と剣をこよなく愛す“トランスインサイトの女侍”ことM嬢の力作です。Mさん、お疲れ!

スポーツ経営における「Value Proposition」の重要性

なでしこジャパンのワールドカップ準優勝を受け、選手の待遇改善を訴える記事などが増えていますね。同じ大舞台で戦っているのに、男子に比べると待遇が悪いとか、同じ女子サッカーでも米国に比べると環境が整っていない、といったものです。

ただ、多少言葉じりを捉えるようで申し訳ないのですが、準優勝した「のに」待遇が悪いのはおかしい、といった主張には多少違和感を感じます。競技レベルが高いことと、ビジネスで成功することは、別のものとして考えるべきだからです。

もちろん、両者は相互依存関係にあるので、競技力が上がれば集客がやりやすくなるのは事実です。もしくは、事業的な成功により手にした資金で競技力向上に投資できるようになります。

でも、競技力が高ければ必ず事業的に成功するわけではありませんし、逆に競技力が低ければ例外なくビジネスで失敗するというわけでもありません。例えば、米国には同じ「野球」という売り物を提供しているビジネスでも、最高レベルのMLBだけでなく、マイナーや独立リーグといった様々な競技レベルの「商品」が混在しています。

最高レベルのプレーを提供するMLB球団でも事業的にうまく行っていない球団は少なくないですし、逆にプレーのレベルが低い独立リーグ球団でも毎年確実に黒字を出しているところもあります。

この成否の違いを読み解くキーワードになるのが「Value Proposition」(バリュー・プロポジション)です。

成功しているマイナー/独立リーグ球団のオーナーや経営者と話していると、会話の中に必ずといっていいほどこの「Value Proposition」という言葉が出て来ます。最近では、MLB球団でも聞くようになってきました。

「Value Proposition」は、日本語に訳すのが難しい言葉なのですが、イメージとしては「提供されている価値」といった意味です。マーケティング的に言うなら、4P(Product, Price, Place, Promotion)によって作り出される総合的な商品価値のことです。

特に、競技レベルで勝負できないマイナー/独立リーグ球団経営者は、4Pの中でも「Product」について徹底的に考え抜いており、分解された複数の訴求価値から市場に合った総合価値を創り出す努力をしています。そして、ここが日米で大きな差を感じる部分です。

競技軸が強い日本では、「Product=競技だけを見せる場」という意識が強く、それ以外の訴求価値を追い求めることが邪道のように見なされる雰囲気があります。これはこれで1つの文化の在り方だとは思うのですが、事業的に考えると「Product=競技だけを見せる場」と定義した瞬間から、「Value Proposition」で柔軟性を失うことになってしまいます。

「同じ競技なのになぜ?」と考える前に、競技のフィルターを外し、それぞれ固有の「Product」としてどのような「Value Proposition」を生み出しているのかを考えるべきでしょう。

「男子サッカー日本代表チームはFIFAランキングで女子代表より下なのに、なぜスポンサーが集まるのか?」
「なぜ競技レベルで落ちる独立リーグ球団でもMLB球団より利益を生む球団があるのか?」
「なぜワールドカップでは男女で優勝賞金が違うのに、USオープン(テニス)は同じなのか?」

競技の軸から離れ、「Value Proposition」という思考の補助線からこうした問いを深めて行くと、違った景色が見えてくるのではないかと思います。

スポーツとの距離感と自我の関係

約1か月ぶりにNYに戻ってきました。この1か月は出張続きでほとんどNYにいませんでした。。。

さて、なでしこジャパン、準優勝は素晴らしい結果だったと思います。最後の試合まで残ることができたわけですから。今大会を見ていて、スポーツ(ウー?)マンシップに関する報道がちらほら出ていて個人的には気になりました。


これ、僕もレベルは全然違いますけど、経験あります。僕もNYでフラッグフットのチームを日本人で組んで、地元の大会に出場しています(相手はもちろんアメリカ人です)。かれこれ8年位プレーしていますが、プレーオフの厳しい試合の後でも、アメリカ人は試合後は割とさっぱりしていて、「good game」(相手が勝った場合)、「good luck」(相手が負けた場合)などと言って来ます。

僕はもともと大学の体育会でアメフトをやっていた人間ですから、負けるのはやはり嫌いです。当時は、自分の全人格を賭けてフットボールしてましたから、「勝負が全て」という感じで、試合に負けると全人格が否定されたような感覚に陥り、しばらく日常生活が手につかなくなったのを覚えています。

まあ、今は遊びですから、そこまでではないですが。ただ、当時の感覚を覚えている人間として、アメリカ人のスポーツとの距離感は、最初は非常に鮮烈に映ったんですね。これは、プロのレベルでも結構似ていて、こちらの選手は大舞台で負けても、試合後のインタビューで平気な顔をして記者からの厳しい質問に答えるんですよね。日本だと、似たような状況では会見拒否も少なくないようですけど。

で、最初はこの違いは教育の違いだと思いました。競技軸が強い日本では(競技軸の話は過去にもいろいろと書きましたが)、選手は「フィールド以上でプレーすることだけが自分の仕事」という意識が比較的強いですが、アメリカでは「競技する以外(プレス対応や地域活動等)も選手の仕事」という教育を受けます。

しかし、日本でも最近は選手教育も球団によっては力を入れて来ていますし、どうもそれだけではこの違いは説明がつかないなぁと感じていました。で、もう少し考えを深めていて、どうも自我の在り方自体に違いがあるのではないかという仮説を持つようになりました。

以前、「社会において集団と個人のどちらを優先するか」でも書きましたが、日本人は「個人の都合」よりも「全体の都合」(場の調和)に配慮した意思決定を行います。相手に配慮しながら意思決定を続ける中で、日本人の自我(自分と他人の境界)は曖昧で、他人に対して開かれています。そのため、時に自分と他者(対象)が同一化してしまうこともあるようです(日本人と欧米人の自我の違いの話は河合隼雄氏の著作を読むといっぱい出て来ます)。

つまり、スポーツ競技において極限状態に置かれると、選手と競技が一体化してしまい、うまく競技や試合を客体化して捉えることができなくなるのです。これに対して、欧米人の自我は明確で、他人に対して閉ざされています。そのため、悔しい負け方をしても、比較的冷静に過去を客体化して振り返ることができるのではないかと感じます。

これはあくまでも程度問題であって、良し悪しではありませんが、こうした自我の在り方がスポーツとの距離感に大きな影響を与えている様に思います。

新国立の事業設計は大丈夫か?

新国立競技場の建設について、その建設費の高騰や設計の変更、工期の実現性などがここにきて大きな議論になっています。こうした議論はこれまでも水面下であったんだと思いますが、東京都の舛添知事が文科省に求められた500億円の都の無条件負担を留保し、その根拠を求めたことがこうした議論の呼び水になったようですね。  

僕は施設設計の専門家ではないので、どのようなプロセスがあるべき姿なのかについて、専門知識はおろか、自分の見解と呼べるような知見は持たないのですが、1点気になることがあります。それは、新国立の事業設計についてです。  

事業設計と言うと、「建設後」にどのようなテナントやイベントを集めて収益計画を立てるのかという事業計画に焦点が当たりがちですが、実はこれよりも重要なのが、「建設前」に事業を想定したデザイン・導線を施設設計に反映させることです。  

日本のスポーツ施設(特に税金で建設される施設)では、建設前にテナントや協賛企業の意見を踏まえることは稀なようです。これは、公共性を重視する日本の行政の特徴なのですが(要は、税金を使っている以上、特定の企業だけに配慮した設計はできないという考え)、この建前が事業的に使い勝手の悪いスポーツ施設が日本中に量産される大きな理由になっています。  

米国では、スポーツ施設建設に際しては10社程度の「共同創設パートナー」(Founding Partner)を募り、10〜20年程度の長期的なコミットメントを求める代わり、施設内での独占的な事業機会を提供する形でパートナーシップを組むのが一般的です。要は、リスクを共有する事業パートナーとして、施設設計時から事業者にコミットしてもらい、よりビジネスのやりやすい施設を自治体と共に創り上げて行くのです。  

例えば、自動車会社が創設パートナーになるのなら、自動車の展示スペースや搬入を踏まえた設計が行われますし、ITソリューション会社であれば施設インフラとしてその会社のハード・ソフトウェアがインストールされるといった具合です。こうした協賛事業を踏まえた設計は、施設建設後に考えても遅いわけです。  

昨年、クライアントとともにスポーツ施設の運営管理を行っている米国のある自治体にヒアリングに行ったことがありました。その際、施設設計に事業者が主体的に関与しない日本の現状を説明すると、「例えば、工場を作るとしましょう。その工場で何を作るかを決めずに、あなたはその工場を建設しますか?自動車を作るのか、アパレルを作るのかによって、施設のレイアウトは大きく違ってくるはずです」と言われて一同言葉を失った経験がありました(笑)。 

新国立建設の議論では、そのデザインについては侃々諤々の議論が展開されているようですが、事業設計の話が全くと言っていいほど表に出てきません。水面下でちゃんと話が進んでいるとよいのですが。 

確かに、オリンピックは国を代表するイベントであり、そのデザインは重要です。でも、見栄えばかりの議論を続けて、肝心な収益性の議論が万が一後回しになっているようなら、僕はそちらの状況の方がより致命的だと思うわけです。毎年何十億円もの維持費を垂れ流すような施設だけは避けるできだと思います。

英雄に年齢制限はない


「With great power comes great responsibility」(偉大な力には大きな責任が伴う)

これは、映画「スパイダーマン」の中で、主人公のピーター・パーカーに対してベンおじさんが伝えた言葉です。

久しぶりのブログにも関わらず、唐突な書き出しになってしまいましたが、今日は敦賀気比高校の優勝パレードの件について書こうと思います。高野連は「華やかなパレードは高校生を英雄扱いし間違った心情を植え付ける」などとして、行き過ぎた祝賀行事の自粛を学校側に要請したと報道されています。

僕は仕事側、日米のスポーツの違いを主にビジネスサイドから15年間見続けてきました。日米のスポーツの違いの中でも特に大きな違いの1つが、「スポーツの価値」に対する認識の違いです。

日本では、「競技することこそがスポーツの価値である」という考え方が根強いです。例えば、プロスポーツ選手は「自分の仕事はフィールド上でプレーすることだ」と思っている人が多く、それ以外の広報や社会貢献活動などは、時には自分の仕事を妨げる存在として認識されることもあります(当然、個人差はありますが)。

良く言えば一意専心でストイック、悪く言えば教条的で視野が狭い、ということになるでしょうか。

一方、米国ではここ10年位で「競技をすること以外もスポーツの仕事である」という認識が当たり前になってきています。以前、「スポーツが単なる競技を超える時」でも書きましたが、NBAは組織のミッション・ステートメント自体を10年前に変えてしまいました。

昨日、たまたまファンドレイジングの専門家の方と意見交換をさせて頂く機会があったのですが、やはり日米のスポーツ選手に広報や慈善活動に対する認識には違いがあるようです。総じて(プロ・学生スポーツを通じて)米国の選手の方が社会性が高く、社会貢献活動やその広報に関しても意識が高い傾向が見られるという点で意見が一致しました。

これは選手の本質に違いがあるのではなく、育つ環境に違いがあるためだと思います。

スポーツには様々な価値・力があると思います。しかし、今回の高野連の決定は、スポーツに教育的価値しか認めておらず、エンターテイメントや社会の公共財としての価値には目を向けていないように感じます。個人的には、高校野球は立派な公共財だと思いますが、優勝パレードを禁止することは、公共財としての価値を過小評価しているような気がします。公共財としての自己認識を失えば、それはもはやスポーツとすら呼べないのではないでしょうか。

“教育的価値”以外には目をつむり、スポーツの価値を限定的に捉えるのではなく、スポーツの持つ大きな価値・影響力を認め、それを積極的に伝え、その媒体としての選手に相応の責任感と行動を求める方が選手も成長するのではないでしょうか? その方が、むしろスポーツの教育的価値も上がるのではないでしょうか。

「It's not who I am underneath, but what I do that defines me」(私の存在を定義するのは、私が誰なのかではなく、私が何をするかだ)

これは、映画「Batman Bigins」の中で、レイチェルに素性を聞かれたBatmanが答えたセリフです。

人の本当の価値・評価を決めるのは、その人の社会的地位や属性ではなく、その人の行為だと思います。揚げ足を取るようで恐縮ですが、高校生が英雄になって何が問題なんでしょうか?

ツイッターでもつぶやきましたが、小学生だった僕にとって、KKコンビはヒーローであり、伝説でした。もしかしたら、僕が今こうした仕事をしている理由の1つかもしれません。

英雄に年齢制限はありません。英雄はその行為により規定されるべきであって、年齢によって決められる存在ではないでしょう。英雄に年功序列を持ち込むようにも感じられる高野連の発想には、非常に窮屈で抑圧的な感じを受けます。

スポーツの大いなる力を認め、それに伴う責任と相応の行為を選手に求めるべきでしょう。英雄扱いされた高校生中には、確かに勘違いして育ってしまう者も出るかもしれませんが、その責任を自覚して更に飛躍して行く者もいるでしょう。

管理された自由の中に身を置くだけでは、真の責任感と行動力は養われません。

米プロスポーツ界に迫る「時短」の動き

今年に入り、MLBではロブ・マンフレッド新コミッショナーが指揮を執っています。年末に、「MLB新コミッショナーの驚きの初仕事」で、BAMのCEOをMLBのビジネス全体統括に据える人事が業界を驚愕させた点をお伝えしました。これと併せて、コミッショナー肝いりのプロジェクトが、試合時間の短縮です。

「試合時間の短縮がコミッショナーの肝入り??」と思った方もいるかもしれませんが、実は試合時間は製品の質を決定づける1つの重要な要素ですから、軽視できません。エンターテイメントは客商売です。特に、エンタメの選択肢が増え、ソーシャルメディアやスマホの登場で、エンターテイメントの消費のされ方自体が大きく変わってきています(特に若い世代では)。

今の若者は1つのエンターテイメントに腰を据えて2時間も3時間もじっとしている消費形態はとりません。「ながら消費」が基本になります。そういう新しい常識から今のスポーツ観戦を捉えなおすと、まず試合時間が長すぎるのです。NYTによれば、昨シーズンの米国4大スポーツの平均試合時間は以下の通りです(延長戦は含まず)。

NFL: 3時間9分
MLB: 3時間2分(ちなみに、日本のプロ野球は3時間17分)
NHL: 2時間28分
NBA: 2時間15分

やはり、3時間を超えるMLBやNFLは、僕でも見ていて「長いなー」って思いますもん。競っている試合ならまだしも、点差がついたら飽きます(ちなみに、NYTの記事にも書いてあるように、4大スポーツで試合時間が最も短いNBAですら時短に向けて試行錯誤しています)。

MLBは昨年の秋季リーグで実験的に「ピッチ・クロック」を導入して、時短の効果を実証実験していました。具体的には、投手は走者がない場面では12秒以内、走者ありで20秒以内に投球を行わなければならない、打者は常に片足はバッターボックス内に入れておかねばならない、といったものでした。その結果、試合時間が約10分短縮されたそうです。これを受け、MLBでも今季から時短に向けた以下のような新規則が盛り込まれることになりました。

・投球練習は30秒以内(何球投げてもよい)
・打者は紹介ミュージックが消えてから20秒以内にバッターボックスに入ること
・打者がボックスに入ったら投手はすぐに投球を開始すること
・攻守交代は2分25秒以内(全国放送の場合は2分45秒以内)

しかし、10分や20分の短縮では、試合の質を大きく変えるには至らないでしょう。将来的に、9イニング制を止めるなどのドラスティックな改革案がMLBから挙がってきても僕は驚きません。それくらい危機感を持って取り組んでいるように見えます。

また、時短に向けたルール作り(ソフト)と並んで重要なのが、スタジアム(ハード)の設計です。

一世代前のスタジアムは、基本的にその競技のことが好きなコアファンを想定して施設を設計していました。そうした施設は、「試合観戦」が唯一最大の価値として設計されているため、観客席以外のアメニティが皆無で、スポーツ自体それほど好きでない女性や、30分で飽きてしまう子供たちにとって快適な施設ではありませんでした。

しかし今や、ハードが「試合観戦」しか前提にしていないと、「ながら消費」の若い世代には受け入れられません。

以前、「日米のスポーツ施設設計の大きな違い」「日本のスポーツ界にはもう少し女性的な感性が必要」などでも書きましたが、米国でこの古い価値観を転換したのは、女性の柔軟な発想でした。結果的に顧客を広く定義し、快適性の高いスタジアムがたくさん誕生して行くことになります。今では、スタジアム内にレストランやラウンジ、小さな子供用野球場、打撃練習ゲージ、喫茶店、散髪屋などがあり、ゲームセンターが設置されている球場もあります。

「野球場に来て野球のテレビゲームをするなど邪道」と切って捨てるのは簡単ですが(こう考えるのは40歳代以上の層でしょう。僕もここです)、これは若者の新しい観戦形態に配慮した結果なのです。経営者としては、今収益を産み出しているコアファン層を相手にするのは優先度の高い仕事ですが、将来の収益を生み出す若い顧客を増やすのは重要度の高い仕事です。

この優先度と重要度のバランスを考え、「守る」部分と「壊す」部分を上手くブレンドして行くのが肝要でしょう。僕もいろいろな球団に行って経営者と話をする機会がありますが、このバランスは球団がフランチャイズを置く市場の特性や競合状況、ファンの特質などによって変わってくるもので、正解はありません。ただ、1つ言えることは、「壊す」勇気を持たないと、ファン基盤が少しずつ縮小して行くということです。

ソフトとハードの両面から、若い世代に魅力的と捉えてもらえる製品を創り上げて行く、その努力の一面が「時短」なのです。

大勝し過ぎて出場停止処分?

Twitterでもつぶやきましたが、先日、カリフォルニア州の高校バスケ(女子)の試合で161対2というスコアで大勝した監督が、所属学区から「Unsportmanlike Conduct」(スポーツマンらしくない行為)により2試合の出場停止処分を受けるという“事件”が起こりました。この件については、いろいろ考えさせられることがあり、ブログにも書いてみようと思います。

この「Unsportmanlike Conduct」ですが、日本ではあまり聞きなれない罰則かもしれませんが、米国では様々な競技でよく見受けられるものです。多くは、試合中の選手やコーチによる暴言や相手の選手を殴るなどの行き過ぎた暴力行為を対象とするもので、具体的なペナルティーとしては、バスケならフリースロー、フットボールなら罰退など、試合中に相手に有利になるように実務的に適用されるケースが多いです。また、行き過ぎると今回のように個人が出場停止処分を受けることもあります。

今回珍しいのは、大差で勝ち過ぎたことが「スポーツマンらしくない」と判断された点です。状況をもう少し詳しく調べてみると、前半終了時点で104対1という大差がついており、この時点で既に「やりすぎだ」と判断されていたようです。100点以上も差がつくのは、大学生と小学生が試合をしているようなものでしょうが、この高校は点差がついてもフルコートプレスを止めなかったようです。後半はレギュラー陣は下げ、第4Qからは時計も止めずに流すように審判に要請したそうですが、“時すでに遅しでした。

日本的な表現で言えば「相手に恥をかかせた」という感じでしょうか。

面白いのは、プロレベルだと日米で似たようなことが見受けられる一方、アマチュアではむしろ価値観が正反対と思える点です。

例えば、プロ野球なら日本でもMLBでも点差が開きすぎた際には、勝っている方は塁に出ても盗塁をしないとか、必要以上に相手の顔に泥を塗らない配慮をします。この「Unwritten Rule」(不文律)に反すると、後で報復の死球を受けるなどやり返されることになります。

これは恐らくはお互い不要な「遺恨」を残さないための大人の知恵なのではないかと感じます。プロでやっている以上、お互いプレーに生活がかかっていますから、変な遺恨を残して後から「こいつにだけは絶対に負けない」と怨念を持たれても得することはありません。

しかし、逆にアマチュアレベルでは、日米の取り組みは正反対のようにも見えます。日本では、「手を抜かずに最後までやるのが礼儀」という価値観がある程度共有されているように感じます。だから、負けていても、途中から相手の二軍に相手をされて適当にあしらわれるよりは、一軍にコテンパンに負ける方が美徳とされるような文化がありますよね。僕は小学校から高校まで野球をやっていましたが、そんな雰囲気でした。

で、この違いはどこから来るんだろうと考えてみたのですが、まず最初に頭に浮かんだのは、アマチュアレベルでは「スポーツをする目的」が日米で違うのではないか、という仮説です。目的が異なれば、同じ行為に対して評価が分かれるのは納得できます。

日本では、スポーツは「教育」を目的とされるため、「ルールを守ること」が大事とされ、これが美徳になる文化が根付いた。それに対して、米国ではスポーツは「競争」と「娯楽」を目的とするため、「競い合って楽しむこと」が大事とされる。

「ルールを守る」ことが最優先と認識されているなら、「最後まで手を抜かずに相手をする」「胸を借りて大敗する」という行為が美化されることも、もっと言えば、灼熱の太陽の下で何時間も試合をしたり、体を壊すのも厭わずに連投したりする行為をやめないのも合理的に説明できますね(笑)。

こんなことをFacebookで書いてみたら、アジアや欧米でアイスホッケーのコーチをしている知人より、別の角度から面白い指摘を頂きました。彼によると、アマチュアスポーツのリーグが、日本では欧米のように実力に応じて階層化されて組織・運営されていないのも背景の1つなのではないかということでした。

欧米では、アマチュアでもマイナーリーグのように実力に応じたリーグが階層的に組織されているので、そもそも実力差がありすぎるチームが同じ土俵で戦うミスマッチが少ない(「ミスマッチの美化」を必要とする土壌がそもそもない)のだそうです。だから、今回のように点差が付きすぎると問題視される。逆に、日本では、高校野球が象徴的ですが「無差別級一発勝負」が多いので、ミスマッチが多発するのが普通で、それを誰も変だと思わない。

だから、今回のケースでは、出場停止処分になった監督とは別に、実力差がありすぎるリーグ構成や参加資格も議論されるのではないかと、その友人は言っていました。

なるほど、興味深い指摘だと思います。僕は育成方面は明るくないので、そのような発想は思いつきもしませんでした。

日本で階層化された育成環境が整備されないのは、日本に根強い平等意識からくるものなのでしょうかね?以前、「スポーツ界の発展を(も)阻む?日本の悪しき平等主義」でも書きましたが、日本は「結果平等」主義が強く、最近では運動会でも手をつないで皆一緒にゴールするという話も耳にします。こうした発想が、小さい時に能力で機会を区別することを良しとしないのかもしれません。スポーツが「教育」の手段として認識されているのなら、なおさらでしょう。
<<back|<12345678>|next>>
pagetop